地域とつながりながら学ぶ(2)NEWS & TOPICS
第2回目は、5月26日(木)、鹿放ケ丘(ろっぽうがおか)ふれあいセンター2階に開設されている「鹿放ケ丘開拓記念資料室」を見学させていただきました。資料室に展示されている当時の写真や、開拓に使った農具や生活用品などの展示を見ながら、副センター長の三石彰さんから貴重なお話をうかがいました。三石さんは、ご両親が開拓者でいらっしゃるとのこと。当時の苦労や生活における工夫などを、実体験に基づいてお話しくださいました。
鹿放ケ丘をはじめ、市の面積の約3分の1は、第二次世界大戦後の開拓によってつくられていった地域とされています。現在の千葉市動物公園や作草部という地域も、かつては下志(しもし)津原(づはら)と呼ばれる広大な開拓地で、鹿放ケ丘はその開拓地のちょうど真ん中に当たります。この地域は、明治時代に陸軍の砲術演習場となっていましたが、第二次世界大戦が終わり、全国的に食べ物が少なくて困っていたので、この地域を開拓して食べ物を作ることになりました。そこで、茨城県の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所基幹学校の10代の生徒たち100人ほどが開拓の手伝いのために下志津原にやってきて、開拓がはじまりました。開拓の訓練を受けていたとはいえ、10代の少年たちが、土地を切り開き、畑を作って食料を生産し、家を作り、生活を形作っていったということに、学生たちも驚いていました。
当時、小麦を生産してパンや麺が作られていましたが、その「鹿放のパン」は、現在、「よつグルメ研究会」で当時の製法が研究されて作られており、イベントなどで販売されています。私たちも、5月21日(土)に開催された、福祉施設紹介・販売フェア「大きなテーブル」で、「鹿放パン」を購入して食べることができました。
お話をうかがった後、センターの敷地を無償で提供している鹿放ケ丘神社も見学させていただきました。開拓者の出身地は青森県から鹿児島県までまたがっており、「ここ以外に帰る場所はない、ならばこの地を故郷にしよう」という思いを抱えて開拓に励んだそうです。神社の境内には、それぞれの出身地から苗木を持ち寄って植えたという木々が茂っていて、「この地を故郷にしよう」という思いが伝わってきました。
丁寧にご説明くださった三石さん、そして、センターの見学のサポートしてくださった毛見さん、有難うございました。